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047. 委託販売のお知らせ
2015年03月30日
大阪は中津にあります、シカクさまでもアインシュタインズのCD、
「かくかくしかじか」と「OTSMN EP」(特典付き)をご購入頂けるようになりました。

初関西進出です。西日本のみなさま、是非店頭でお手に取って頂けると幸いです。
よろしくお願いいたします。




(アインシュタインズ)
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045. 無題
2015年03月26日
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もし来世があるとしたらなりたいもの。

あるいは、これが地球を侵略しに来た宇宙人が乗ってる母船だったら可愛くないですか?


(アルベルト志村)
044. エゴと優しさ、あるいは本について②
2015年03月24日
 先日の雑記に書いた「緩やかな別れを意識、覚悟をし」たことについてあれこれ考えていて、テキストを1000字ほど書いたが、その先の文章を考えていると悲しくなってしまって途中で止めた。
 どうしたって同じ毎日を繰り返すことはやはり不可能なのだな、ということ、結局のところ自分が基準となってしまう優しさには果たしてどれだけの価値があるのか、どこまで相手の為になり得るのか、ということなど。それを考えてしまった時点で、もう優しさとは言えない気もするのだが。
 エゴと優しさ、その狭間で何も出来なくなってしまうよりは、後でどうなろうと、どう思おうと、どう思われようと、かまわず行動した方がいいのか。それとも、何もせずに希望的観測を拠り所とし現状を維持――見守る、なんて言い方がある――する方がいいのか。極端な考えかもしれないが。もしくは中庸を目指すべきなのか。
 とりあえず言えることは、健康が一番、である。家族の、友人の、恋人の、ペットの、他人の健康を願いましょう。


 今、川上未映子さんの『魔法飛行』を読んでいるのだが、読み終わるのがもったいなくてなかなか進まない。読みたいけれどあえて読まないようにする、なんて変なことをしている。


 『魔法飛行』と同時に、植草甚一氏の『ぼくは散歩と雑学がすき』と、やっと手に入れた山田宏一氏の『友よ映画よ』という本も読んでいる。いずれの本も長編ストーリー小説ではなくひとつひとつが独立したエッセイ・コラムで読みやすく、その時の気分で読む本を変えている。
 僕はヌーヴェル・ヴァーグやアメリカの60年代カルチャーに詳しいわけではないが、どちらの本も衒いを感じさせず、少年のような好きなものに対する好奇心が垣間見えて快い。
 『友よ映画よ』の影響でゴダールの「勝手にしやがれ」と「アルファヴィル」を見返したが、案の定途中で眠くなった――ちなみに前に見た時も眠くなった。映像と音楽と俳優たちは美しくそしてかっこいいのに、一時停止を押して少し寝た。
 
 そもそも何故これらの本を知ったのかというと、小西康陽氏の『ぼくは散歩と雑学がすきだった。』(植草甚一氏の著作から引用したタイトルや体裁や装丁、ヴァラエティ・ブックというスタイルの本。ちなみに『これは恋ではない』もとても良い本です)の中で紹介されていたからだ。特に『友よ映画よ』はどうしても読んでみたい本であった。
 小西さんは『増補版 友よ映画よ』(残念ながら僕が購入したのはちくま文庫刊のもの。こちらの解説は蓮實重彦氏が書いている)に解説文を寄稿していて、それが『ぼくは~だった。』に再録されているのだが、この解説のタイトルだけでもう僕はやられてしまったのだ。

 「表現すること以外に世界とコミュニケイトする方法が見つからずにいる――若くて絶望した人たちに。」

 まるで自分のことをそのまま表したようで、どきりとした。僕は、音楽が自分を最低限、人としてなんとか保ってくれていると思っているタチの人間だ。恐らく似たようなことを感じている人は沢山いる――もちろん音楽以外の、小説や映画や絵画や服飾やあらゆる芸術、あらゆる表現に関係する人たちも――と思うが、まさかあの小西康陽がこういう心持ちに言及しているとは思わなかった。小西さんは泣きながら『友よ映画よ』を読み返して泣きながら解説の原稿を書いた、とある。僕は泣きこそしなかったものの、胸は熱くなって目はうるんでこの文章を読んだ。おこがましいが、解説内の小西さんと僕の境遇を勝手に重ねてしまった(本当におこがましいです。ごめんなさい)。こうなると、『友よ映画よ』を読みたくなるのが人情というものでしょう。
 純粋な映画愛に溢れた本、そこに寄せられた愛に溢れた解説、そして植草甚一氏の本、それらを数珠つなぎのように読んで、僕は音楽や映画、芸術や文化に対する接し方に改めに気付かされたような気がした。それは本当に単純なことで、自分が好きなものにただ愛を持って接すればいい、ということだ。少年のような好奇心とともに。


(アルベルト志村)
042. 日付けのない日記③
2015年03月22日
・この時期の微妙な気温、服装に迷う。季節の変わり目はいつもそうだ。

・録画して未視聴だった3年前のローザンヌ国際バレエコンクールを観た。クラシックもコンテンポラリーも刺激的。

・人の集まりに息が詰まる。

・本屋へ行って文庫の棚を見ていると突如として右耳がGの音で耳鳴り。

・漫画雑誌の立読みをするも、読みたい作品の9割が休載だった。

・いがらしみきおの新刊が出ていてタイトルに惹かれ手に取る。帯の推薦文を見たら買う気持ちが少し萎えたが購入。

・読後感は何だか重かった。

・久しぶりにコンビニのおにぎりを食べた。ご飯の感じがちょっと苦手になったかもしれない。

・緩やかな別れを意識、覚悟するも杞憂に終わる。

・ご卒園、ご卒業おめでとうございます。


(アルベルト志村)

041. ガラスの靴
2015年03月21日

さて、先週新曲を発表したばかりですが、また新曲です。
「ガラスの靴」という曲です。
今度はちゃんと読めるタイトルですね。



(アインシュタインズ)
040. こぴぺすごろく2
2015年03月20日






このマスに止まったものも1回休みとする。


(komachi)
039. 春、アンビエント、切断
2015年03月19日
 冬が終わることへの抵抗か春が来ることへの恐怖か、気が滅入っています。冷たく刺すような空気からいつまでもつきまとってくるみたいな生ぬるい空気に変わっていく気配がそこここに漂っていて、そんな春の空気にからめ捕られて身動きがとりづらいような、呼吸すらもどこか息苦しく感じられるような(ちなみに花粉症ではありません)。何なんでしょうね。気分的な問題ですか。それとも自律神経的なアレですか。

 個人の意思とは関係ない絶対的な時間の流れを嫌と言うほど感じさせる、殊に冬から春にかけての環境――自然的なものも社会的なものも含めた――の変化の仕方は、緩やかなグラデーションを描くように推移していく――と私は感じている――春から夏、秋、そして冬という流れとは違い、また1から始まるいかにも更新といった、いや、むしろ切断に近い印象を受けます。乾いた地面から種子が芽吹く様子や、学年が変わる年度末・新年度という子供の頃からの刷り込みが、こういう印象を強くさせている要因のひとつかもしれません。それは時に希望を伴うし、置いてけぼりにされるような気分にもさせます。周囲の前へ進む速度に自分はついていけていないのではないかという不安。また、ちょうどいい切り替えや仕切り直しのタイミングと言えるし、それがかえって、切り替えなきゃいけないというプレッシャーになって動けないこともあるような。”その人の心持ち次第”なんて言葉で片付けてしまうのは少し危険ではないかと思うほどの強制力と強迫感を覚えます。小学1年生の時に、どうしても2年生に進級したくなかったことを思い出しました。理由は今となっては分かりませんが、とにかくなりたくなかった。そんな強烈な一心。熱は持たないけれど自らの存在を主張するように鈍く光る記憶が今でも残っています。
 この時期のざわざわ感はひょっとすると、もう上がる学年なんかないのに、春が来てひとつ大人になるという子供の頃の習慣や雰囲気が体のあちこちに染み込んでいて、そこに知覚の及ばない齟齬が生じることに起因しているのかもしれない、なんて考えたりもしたけれどどうでしょう。

 気分が沈んでいる時や悲しい時は、特にクラシックやジャズなんかを聴きたくなります。音や旋律の意味を考えてもいいし考えなくてもいいし、作者の意図を汲み取ってもいいし汲み取らなくてもいい。純粋な審美的な観点で聴けて、ほどよい距離感がある、と勝手に半ば停止気味な頭と心で思いながら聴きます――明文化するとこうなりますが、本当はこんなことは思わずにぼんやりと聴いていることが多いです。単純に心地良いですからね。
 しかし最近はそれすらも疲れるような気がして、何となく気も進まないときて、だったら何も聴かなきゃいいじゃん、と思うけれどもそういうことでもなくて。日常の音からも離れたい――そこでアンビエントやドローンを進んで聴くようになりました。体――耳や脳も?――が求めているという感じです。メロディもリズムもケーデンスもないところがいい。こう思うようになるなんて10年前の自分は全く予想だにしなかったでしょうね。時間の経過を感じさせる余計なものが一切ない音。そんな魅力を新たに発見できて、アンビエント系の曲を探している時、久々にニヤついていました。現時点の趣向として、なるべく環境音やリズム的なノイズ、パーカッシブな音が入っておらず、和声の変化もないものを選んで聴いています。
 私はとても涙腺が緩いのですが、音楽を聴いてわんわん泣いたことは意外とありません。しかし、うるうるすることはあります。時候のせいか気分のせいか、そんなうるっとくる瞬間がいつも以上にやってきそうな予感がするので、なるべく感情を揺さぶらない低刺激で、己の心情を投影する余地のない音を聴いていたい、という気分もアンビエントに傾倒した理由としてあったかもしれません。

 ドローンやアンビエントは、制作上のプロセス――オーディオの編集、カットやコピー、ペースト――についてここでは言及しないとして、聴感上、単一の音が延々と伸び続けていつの間にか始まりと終わりの境界がぼやけシームレスになります。つまり前へ進もうとする律動が抑えられ、切断や更新もないか、あるいはそれらが極限まで削がれた音楽なんだ、とはたと思いました。そう、見事に春の苦手な部分を音楽が相殺してくれており、この時期の私にうってつけなものだったわけです。体は何とも正直でありました。
 
でも自分の中で、うつろう四季や旬のようにその時しか聴く気になれない音楽や流行りがあって、恐らくその内また違うジャンルを求めたり、いつも聴いていたような音楽を聴きだしたりするのだろうなぁと思います。別の何かを聴き始めたのなら、それは季節が――ひょっとしたら自分も――変わっていくというささやかなしるしなのかもしれません。


(アルベルト志村)

037. 日常のためのライナーノーツ
2015年03月17日
眠れない夜を、
眠れない夜として受け入れる。

晴れているのに悲しい朝を、
晴れているのに悲しい朝として受け入れる。

そこに鳴る音楽は癒しもしないし励ましもしない。

ただ伝わるのは作者の優しさや奥に秘めた悲しさだ。
それを感じて私は泣いた。
いや、もしかすると私の心を勝手に作者に投影しただけなのかもしれない。

変わらない日常に添えられ、
昨日も今日も明日も静かに鳴り続けるだろう。

私は悲しみを、
私の悲しみとして受け入れる。


(アルベルト志村)
035. 日付けのない日記②
2015年03月15日
 承前。他にも古本屋を覗いたが、特に何も買わなかった。今まで見たことのなかった本を「発見」しただけで満足、ということは往々にしてある。情けないことではあるが、金銭的な制約のため何でもかんでも買えない、というのも大きい。行きたいお店はまだあったものの、別の日に来ればいいかと思い、僕は西荻窪から高円寺へ向かった。古本屋でやらかしたり棚を眺めたり本を手に取ってぱらぱらめくるだけで結構時間は経っていたし、とりあえず今日西荻でやれることは全てやったような気がしていた。

 高円寺では某バンドのスウェットを買っただけで――前述の金銭的制約とはこのことだ――すぐに中野へ行くため駅に戻った。もう少しふらふらしようかとも思ったが、この買い物が出掛けた理由のおよそ4割を占めていたので、やりきった感慨のようなものがあり気持ちはもう次に向かっていた。

 中野に着くと、中野ブロードウェイへ。サンモール商店街を通って行くわけだが、多くの人でにぎわっていた。ひょっとすると学生なんかは春休みに入っているのかもしれない。若い人や年配の人、外国人観光客や地元の人。途中に中華系大手チェーンやイタリアンの飲食店などが目に入り急に空腹を思い出した。「一応ご飯を食べられるだけのお金は持っているけど、何で僕はお腹が空いているんだろう」と自分のさじ加減ひとつでどうとでもなるようなよく分からないことを考えた。やはり何も食べなかった。
 中野ブロードウェイに来たのは少し久し振りであった。お客さんは結構いたが、以前来た時よりも降りたシャッターが目立った。それは何とも寂しい光景であった(ひょっとするとこの日が定休日だったお店もあるのかもしれない)。まずエスカレーターを降り地下1Fへ。建物の真ん中を通るメインストリートと言える通路はとても人が多く、大して興味のない食料品をぼんやり見つつ進み左へ曲がると建物内の一番端にあたる通りへ出たが、ここは業者専用の通路なのか?と思うほど人通りがなく、あまりの落差に少し混乱した。異空間のようでちょっと怖くなり上に行こうと階段へ向かった。すると踊り場のようなスペースに椅子があり、地元のおばあちゃん達がそこに座って井戸端会議をしていて何だか安心した。
 エスカレーターで3Fへ。そこに今日中野へ来た目的のお店がある――


CM

中野ブロードウェイ3Fにありますタコシェさんに、アインシュタインズのCD2作
「かくかくしかじか」
「OTSMN EP (特典付き)」
を置かせて頂きました。多分まだあると思うので、中野に来た際には是非タコシェさんにお立ち寄りください。



 ――タコシェの店員さんに「CDを置かせて頂いているんですけど、写真撮ってもいいですか」と声をかけると、とてもフランクに「どうぞ」と言ってくださったので2枚ほど撮り、挨拶をして少し店内を見てからタコシェを後にした。駅へと歩く道すがら、自分が何者なのか名乗っていなかったことを思い出した。ちょっと怪しい奴に見えたかもしれない。そして僕は新宿へ向かった。

 新宿に着くとまたタワーレコードへ。というのも、先日のブログで触れた某アイドルのレコードに不良――盤にくぼみがあった――があり、チリチリとしたノイズどころではない針飛びがあったため交換をしに行ったのだ。無事に交換を済ますと、この日は10Fには行かずまっすぐ帰路についた。なんとなく気分は晴れたかもしれない。そういえば、いい天気であった。


(アルベルト志村)

034. エスカレーター派
2015年03月14日

エレベーター


『あたしエレベーター嫌いなのよね。』



(komachi)

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