052. 日付けのない日記④
2015年06月30日
 書きかけの日付けのない日記がサルベージされたので、それにいくつかテクストを加えて体裁を整えてみた。


 こう書くと何日のことか分かってしまうとは思うが、4月に雪が降った。残念ながら桜はほとんど花を散らしてしまっていて、まだいくぶん枝に花びらは残っているものの、もう青い芽がちらほら見られる。完全な共演とは言えないまでも、雪と桜を同時に見ることが出来て、気持ちは少し弾んだ。もう去ってしまったかと思った冬がまだそこにいたことも、そんな気持ちにさせた要因の一つかもしれない。これが冬の最後の別れの挨拶、と考えると途端に悲しく寂しくなるが。
 

 書店でブルー○スやク○ネルを立ち読みすると、その生活への意識の高さに眩暈がした。それでも読んでしまう。僕はこういった雑誌に書かれているような、シンプルでオーガニックな服や木製の食器や北欧のあるいは色味の押さえられたカーテンやラグなどの家具なんかに囲まれる生活に憧れているし、実際に囲まれて毎日を過ごしてみたいとも思うが、”生活のための生活”という本末転倒な雰囲気をどこか感じてしまって、ほんのちょっと抵抗感、とまではいかないまでも若干の苦手意識があったりする。単純にそういった部屋やお店を紹介する記事中の写真は美しく、目の保養になるから好きなだけなのかもしれない。何となく必要なものを揃えていった現在の僕の部屋は、結果、見た目よりも実用性を優先した格好で、おしゃれとは言い難いものである。


 録画したものの見ることなく溜まっていた番組をハードディスクから削除した。複数の番組をまとめて選択して削除できない我が家のレコーダーは、ひとつひとつ番組を選択しひとつひとつ削除していかなければならない。難儀。何という手間、何という人生で無駄な時間の使い方だろう。削除中、指は同じ動きを繰り返しルーチン化すると、次第に心も脳も無の境地となっていった。一番古い番組は3~4年くらい前のものだったか。いずれ見るだろうと思って残しておいたものの、結局再生することはなかった。つまり僕の中で、あるものに対する関心、もっと言うと執着や未練は3年あれば消えて何とも思わなくなるということか。逆にそれだけかかるとも言えるが…となると3年はいささか長い気もする。
 容量の増えたハードディスクにはまた新たに番組が続々と録画されていっている。そのほとんどを、僕はまだ見ていない。


 会期終了日に国立新美術館へマグリット展を見に行った。あまり絵画や美術方面に明るくないのだが、中学生の時に――きっかけはすっかり失念した――マグリットを知り、どうしてか好きになった。それは直感的なものだったと思う。今回の大回顧展のニュースを初めて知った昨年の11月頃は、始まったらすぐ見に行こうと思っていたのに、結局最終日に赴くこの体たらくである。前日は山口小夜子展の最終日だった。駆け込みでこちらも行こうと思っていたのだが、結局行かなかった。そのことの後悔が昨夜からじわじわ高まっており、そんな状態で僕は地下鉄日比谷線の六本木駅を降り、国立新美術館へ向かった。
 当日券を買おうとすると券売所には列が出来ていた。マグリットの展示を見る前に館内の売店を見ると山口小夜子展の図録があったので、立ち読みして後悔を少しでも昇華してから会場のある2階へ上がった。展示最後の日だからかどうかは分からないが、人は多く、幅広い年齢の方が見に来ていた。人を押しのけ作品の前にぐいぐいと迫る自分の世界に入り込んでいる人や、「フィレンツェの美術館が~」などとアッパーな会話を繰り広げる御婦人方など、人いきれに居心地は決して良くなかったが、こうなったのも、余裕があると先延ばしにしてしまう己の性格のせいである。諦めるほかない。ただ、すっかり白髪だけになったおばあちゃん二人組を見かけて、こういう歳の取り方って素敵だな、と思った。
 「空の鳥」という有名な作品があるが、僕はこの絵画がどうしようもなく好きで、思わず実物を目にすると動けなくなってしまった。しばらく眺めてから次の絵の方へ歩みを進めるが、どうも見足りないような気になって踵を返しまた見た。これまで絵画を見て、何度も見たくなる、ずっと見ていたくなる、という思いに駆られた記憶はあまりない。不思議な感覚だった。僕は帰る途中、その新鮮な感動を反芻し、今日は良い日だったな、と思った。


(アルベルト志村)
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