044. エゴと優しさ、あるいは本について②
2015年03月24日
 先日の雑記に書いた「緩やかな別れを意識、覚悟をし」たことについてあれこれ考えていて、テキストを1000字ほど書いたが、その先の文章を考えていると悲しくなってしまって途中で止めた。
 どうしたって同じ毎日を繰り返すことはやはり不可能なのだな、ということ、結局のところ自分が基準となってしまう優しさには果たしてどれだけの価値があるのか、どこまで相手の為になり得るのか、ということなど。それを考えてしまった時点で、もう優しさとは言えない気もするのだが。
 エゴと優しさ、その狭間で何も出来なくなってしまうよりは、後でどうなろうと、どう思おうと、どう思われようと、かまわず行動した方がいいのか。それとも、何もせずに希望的観測を拠り所とし現状を維持――見守る、なんて言い方がある――する方がいいのか。極端な考えかもしれないが。もしくは中庸を目指すべきなのか。
 とりあえず言えることは、健康が一番、である。家族の、友人の、恋人の、ペットの、他人の健康を願いましょう。


 今、川上未映子さんの『魔法飛行』を読んでいるのだが、読み終わるのがもったいなくてなかなか進まない。読みたいけれどあえて読まないようにする、なんて変なことをしている。


 『魔法飛行』と同時に、植草甚一氏の『ぼくは散歩と雑学がすき』と、やっと手に入れた山田宏一氏の『友よ映画よ』という本も読んでいる。いずれの本も長編ストーリー小説ではなくひとつひとつが独立したエッセイ・コラムで読みやすく、その時の気分で読む本を変えている。
 僕はヌーヴェル・ヴァーグやアメリカの60年代カルチャーに詳しいわけではないが、どちらの本も衒いを感じさせず、少年のような好きなものに対する好奇心が垣間見えて快い。
 『友よ映画よ』の影響でゴダールの「勝手にしやがれ」と「アルファヴィル」を見返したが、案の定途中で眠くなった――ちなみに前に見た時も眠くなった。映像と音楽と俳優たちは美しくそしてかっこいいのに、一時停止を押して少し寝た。
 
 そもそも何故これらの本を知ったのかというと、小西康陽氏の『ぼくは散歩と雑学がすきだった。』(植草甚一氏の著作から引用したタイトルや体裁や装丁、ヴァラエティ・ブックというスタイルの本。ちなみに『これは恋ではない』もとても良い本です)の中で紹介されていたからだ。特に『友よ映画よ』はどうしても読んでみたい本であった。
 小西さんは『増補版 友よ映画よ』(残念ながら僕が購入したのはちくま文庫刊のもの。こちらの解説は蓮實重彦氏が書いている)に解説文を寄稿していて、それが『ぼくは~だった。』に再録されているのだが、この解説のタイトルだけでもう僕はやられてしまったのだ。

 「表現すること以外に世界とコミュニケイトする方法が見つからずにいる――若くて絶望した人たちに。」

 まるで自分のことをそのまま表したようで、どきりとした。僕は、音楽が自分を最低限、人としてなんとか保ってくれていると思っているタチの人間だ。恐らく似たようなことを感じている人は沢山いる――もちろん音楽以外の、小説や映画や絵画や服飾やあらゆる芸術、あらゆる表現に関係する人たちも――と思うが、まさかあの小西康陽がこういう心持ちに言及しているとは思わなかった。小西さんは泣きながら『友よ映画よ』を読み返して泣きながら解説の原稿を書いた、とある。僕は泣きこそしなかったものの、胸は熱くなって目はうるんでこの文章を読んだ。おこがましいが、解説内の小西さんと僕の境遇を勝手に重ねてしまった(本当におこがましいです。ごめんなさい)。こうなると、『友よ映画よ』を読みたくなるのが人情というものでしょう。
 純粋な映画愛に溢れた本、そこに寄せられた愛に溢れた解説、そして植草甚一氏の本、それらを数珠つなぎのように読んで、僕は音楽や映画、芸術や文化に対する接し方に改めに気付かされたような気がした。それは本当に単純なことで、自分が好きなものにただ愛を持って接すればいい、ということだ。少年のような好奇心とともに。


(アルベルト志村)
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