061. 辺境より '16 卒業
2016年03月18日
 服の趣味が緩やかに変わってきているようだ。断捨離というわけではないが、もう全く着なくなったもの、あるいはこれはいつか着そうだなと見る度に思いながら結局着ないような服を一気に処分した。全く問題なく着れるのだけれど今現在の趣味・気分に合わないものはネットオークションに出してみた。落札されないと何となく後ろ髪を引かれたような気になり、やはり残しておくべきか、もう出品は止めようかなとも思ったが、心を鬼にしてしつこく出品を繰り返すと、慣用的な意味でもなんでもなく文字通り捨てる神あれば拾う神ありで、案外売れるものである。もちろん安価ではあるが。他のオークションでは売れそうにもない服はB○OK OFFに売りに行こうとまとめて置いておいた。すると何となく気分が落ち着かない。これまで僕を裸体を晒す羞恥や寒暖、紫外線等々から守ってくれた服を、早く売ってこの部屋からその存在を消してしまってスッキリしたいと思うのだから何とも現金で酷い話だ。
 僕はものを捨てるのが本当に苦手で、これは結構気持ち悪いと自分でも思うのだが、学生の頃に友達からもらった旅行土産が入った包装紙——何の変哲もない普通の紙である——をずっと取って置いていたりする吝嗇な人間である。というのも、すべてのものに人の手がかかっていると考え、人の手を通過したものには少なからずその人の意思が内在しているような気がしてしまい、無下に扱うことが出来ず捨てられないのだ。無機物に対する己の心の投影なのだろうが、どうしてもものに心を見てしまう。今回断行した服の一斉処分は、自分が実際に着用していたものなので、貰ったものとは意識の仕方が違うため単純な比較は出来ないが、ものを処分することは気分転換にもなるし意外といいものだと思った。ミニマリストに憧れを抱いたことは微塵もない。しかし僕の部屋にあるCDやレコード、本やマンガを一気に全部売り払ってしまうと、僕の気分はどうなるのだろう、とか、現実的に一体いくらになるのだろうと考えることは、実は結構ある。今の所それを行うだけの労力も人生における転機のようなものも必要性も感じていないので妄想止まりだが、本当は捨てて一度まっさらな身となって、新たなスタートを切ってみたいという欲求があるのかもしれない。
 3月のある日、僕は割と大きめな袋2つ分になった不要な服を売るべく、左右それぞれの手で持ちながら街へ繰り出した。快晴の天気で日差しは暖かく、にわかに冬はもう終わったのだと感じた。無事に服の買い取りを済ませると、出来たお金で待ち時間に見つけた古本を買った。部屋にあった服は新たに本に練金され、結局また部屋の空間を埋めるのである。そしてB○OK OFF内で回転する閉じたお金の流れに若干の虚しさを覚えつつ店を後にした。

 街をふらふら歩くと、若者が多いように思えた。なるほど、もう学校は卒業を終えた時期である。
 僕の印象に残っている卒業式は高校生の時のものだ。熱心に勉強に打ち込むわけでもなく、課外活動や部活に精を出すわけでもなくそれなりに過ごして、別段高校に思い入れがあったつもりはないのだが、式が始まってから間もなく、僕はギャン泣きしていた。自分でもどうしてこんなに泣いているのかよく分からないくらいだった。これ以来、僕は確実に涙もろくなった。涙腺のたがが外れた感じである。僕は挨拶を読む役割があったので、式が進むにつれ次第に落ち着いていったが、閉会後、隣にいた女子から「志村がずっと泣いてるからわたし全然泣けなかったんだけど」と言われる始末であった。卒業生の歌では「仰げば尊し」等のオールドスクールな曲ではなく現代のJ-POP、しかも僕のあまり好きではない曲を唄わなくてはならなかったため、ピアノの伴奏を買って出ていた。唄いたくない、というのも動機のひとつであるが、もう一方で最後にピアノを弾けるアピールをかまして一目置かれたい(心の声はあわよくばモテたい)という下心があった。僕にも思春期らしい衝動があったわけだ。確か在校生の送る歌——何の曲だったかは忘れた——の後すぐに卒業生が唄ったはずである。指揮をする女子の大仰で奇妙な動きを見つつ弾き始めたとき、鍵盤がやたらぬるぬるしていて滑りそうになったのを強烈に記憶しているからだ。伴奏をしていた後輩の子は緊張していたんだろうなぁとそのとき思った。つつがなく演奏を終え、無事に卒業式も終了し、謝恩会まで友人らと話したりして時間的な余裕はだいぶあったように思うが、同級生からも下級生からも伴奏についての反応は何一つなかった。まぁこんなもんだよな…と思いながらその後、ロッテリアだかマクドナルドだかで夜遅くまで最後の制服姿で男友達とくだらない話をしていた。何とも青春ではないか。

 そんなことを思い出しつつ帰りの電車に乗った。席が空いたので座ると、隣にはお母さんと抱きかかえられた赤ちゃんが座っていた。ちょうど僕の方に顔を向けて赤ちゃんが寝ていたのだが、赤ちゃんを見ると僕は今までに感じたことのない愛おしさを覚えて驚いた。勝手に将来きっといい顔の子になるんだろうな、と思わずにはいられないくらい可愛らしい顔をしていたので、単に造形的な感動だったのかもしれないが、ありふれた日の電車の中で、全く知らない赤の他人の子どもをここまで可愛いと思うとは予想だにしなかった。正直に言うと、これまで赤ちゃんを可愛いという感覚がいまいち掴めていなかったのだが、もしかするとこういうことなのかもしれない、と思ったほどだ。春らしい出来事だと感じた。


(アルベルト志村)
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